毒親とはなにか。
人の親とは、愛があるタイプと愛がないタイプこの二種類にしか分かれないと思う。
愛がないタイプ、俗にいうネグレストや性的虐待、暴力、これは間違いなくなんの誤魔化しようもなく毒親に適用されるんだと考える。
しかし愛のある毒親も世の中には存在するのだ。
その違いについて私が私なりに考え見つけたのは愛が子供に合わせて加工できるか、できないかの違いなのではないだろうか
愛はそのままでは生肉と一緒だ
焼いたり煮たりさまざまな調理をしないと食えたもんじゃない。
世の中には料理ができない親がいるように愛を加工できない親がいるのではないか?
私の狭い見解や思考なのでもちろん偏見かもしれないが私はそう考えた。
愛が加工できない親は生肉を子供に渡す。もちろん食べれない。受け取れない。
そうなると愛を受け取れない子供ができる。
親は子供を愛しているという。
子供は親から愛されていないという。
こうして、愛されているけど愛されていない子供ができるのではないか?
子供を愛している毒親が生まれるのではないか?
主題は毒親とはなにか。なのでここから毒親とはとは何かを考えていきたい。
タイプ1(暴力、ネグレスト、性的虐待)これは間違いなく毒親である。
タイプ2(愛しているけど愛を子供に加工して渡せない)
これも悲しいことではあるが毒親になってしまう可能性が高い。
タイプ2にもいろんな種類が存在する。
無関心なタイプ、過干渉なタイプ、愛するより愛されたいタイプ、子供の気持ちが理解できないタイプ
etc.
もし子供が愛されていることを実感できずなんらかのコンプレックスを抱いたとしたらその時点でその親は毒親に適用されてしまうのかもしれない。
子供はどこまでも子供だ。
経験値や思考力は足りない。
親の愛を加工する能力なんてものは一切ない。
愛されている実感をもてる子供に育つには親が加工した愛を送るしか方法はないのだ。
悲しいことではあるが、どうか自分の愛がきちんと子供が受け取れる形であるかを考えてみてほしい。
タイプ1の毒親は責任がもてない、愛せないならばつくらないって選択肢を選んでほしい。
親の愛が受け取れない人達へ
ある人に、「自分は愛されてるからしょうがない。」って言われたことがあるんですよね
愛情ってなんだろうって思いました
その人の言ってる愛がカトリックの免罪符のように聞こえたのかも知れません
愛は免罪符ではないですよ
愛があるから許さなきゃいけないわけじゃない
愛を必ずしも受け取らなきゃいけないわけじゃない
もし愛を肉として例えるならば、親が子供に向ける正常な愛は加工された綺麗なお肉なんだと思うんです。
加工した肉なら食べれますよね?
だけどたまに加工もせずに生肉をそのまま渡しちゃう人がいる。
これは加工をしないんじゃなくて料理が下手なのと同じなんだと思うんです。
仕方がわからない。加減がわからない。
歳をとってから親の愛に気づくっていう現象は自分で生肉を加工できるようになったんじゃないかなー…って。
親の愛が受け入れられない若い人達
どうか自分を責めないで!
親もあなたも悪くないよ!!!
文字通りの意味でしょうがなかった、私はそう思うんです